「閃き」というエクスタシーを感じるとき


二人が深いオーガズムに達すると溶け合い

もはやどこまでが自分の身体で
どこまでが相手の身体か分からなくなる

前回書いた、なかにし礼さんの事。「黄昏に歌え」という自伝的小説について触れたよね。SM描写が出てくるという話。

実はこの作品、SMとは別に、とても興味深いことが書かれていたんだ。

オーガズムにも関連する大きなテーマ、というよりこの作品の中心テーマなので、このブログでも触れておくね。

ただし、一言ご注意を。〝Y〟は合理的で科学的な思考をする人間だし、そうした目でこの話題に触れるけど、多少スピリチュアルっぽい話にも聞こえちゃうだろうから、そんな事が苦手な人はこの項目、すっとばしちゃってね。

さて、そのテーマとは、彼の大ヒット曲をもたらすインスピレーションとそれに関わる様々な出来事について。

「閃き」と彼は呼んでいるんだ。

作詞の作業でこの閃きが起きると、その曲はとてつもない大ヒットとなる。

そしてその閃きは作詞の作業を何時間も集中して続けているうち、自分自身から色々な邪念が消えて、無私の状態になっているときにだけ起きるというんだ。

しかも、その状態は「喜びに全身がつつまれ」て、「生々しいほどに官能的な」ものであるという。自分以外の永遠なるもの交信し、愛しあっているような喜びなのだというのだから(幻冬舎版ではp.269)、これって、完全にセックスにおけるエクスタシーだよね。

さらに男女が抱き合って恍惚とした状態で溶け合っているときという比喩を使い、小説で主人公がお話している相手の女性が「どこまでが自分でどこからが相手の身体なのかわからなくなるあの感じ」と確認する箇所を見た瞬間(p.386)、まさに同じ経験を〝Y〟もしたことを思い出したんだ。

そう、身体が溶け合う経験。それ、セックスでは本当にあるけど、それが作詞という作業についての表現で出てくるとはビックリしたよ。

菅原洋一さんの大ヒットとなった「知りたくないの」という作品がまさにそう。

ある夏の日にこの歌詞は書かれたのだけど、その時、彼は閃きとともに恍惚の時の中に放り込まれ、一つの魂として宙に浮かんでいたと言うんだ(p.371)。永遠なる時の流れと合体し、限りない歓喜に打ち震え、過去、現在、そして未来に存在する生きとし生けるものすべての生命と交歓しつつ生きていく、魂の働きを感じたという。

そして、そのときから彼は人間が変わったと言うんだ。

これって、多くの人たちが「悟り」と呼ばれることを表現することにとても似ている。いや、全く同じかも。そして、それはセックスで究極の体験をした人々が語ることとも。

〝Y〟の場合、も似たような体験を仕事やセックスで何度かしているので、よくわかるんだ。

きっと普段にないリラックスと、もの凄い集中力の両方が一緒に起きたため、脳が通常では見せないような特殊な働きをするのだろうね。そのうち大脳生理学などできちんと解明できるのかもしれない。

いずれにしても、そんな体験があると、仕事も、セックスもおざなりにすることなんて出来なくなる。だって、「あの世界をまた見たい!」、「また感じたい!」と思うから。

なかにしさんは音楽だけでなく、芸能活動全般に携わるものはこうした体験をしている人が多いはずだと言い(p.386)、そうした人々の仕事への向かい方はお金儲けとは違ってくるというようなことも書いている。

さらになかにしさんが書かれている事で、もう一つ興味深いことがあるんだ。

それは自分一人でなく、相手がいて、相手が同じようにふるまったときに、そこから生まれる閃き、エクスタシーは何倍にも何十倍にもなるということ。これはまさにセックスで感じるよね。そして大ヒットといういうのは曲を作り上げる段階で、複数の関係者の閃きがひとつになっているという。

〝Y〟の場合は〝ゆえ〟という、快楽の追求にとても真面目な従者をもったことから、二人でこうした体験を真剣に追求することが出来るようになった。

その結果、エクスタシーの量が何倍にも増幅されているのかもしれない。

これはやっぱり恵まれていることだろうと思うよ。

なかにしさんの「黄昏に歌え」は著者自身、この「閃き」のことを書きたくてこの本を記したとあるから、彼自身も多くの人に伝えたいテーマだったのだろうね。

その機序がいつか科学で解明されて、その究極のオーガズムともいえる体験が誰でもできるようになるといいなぁと思う〝Y〟だよ。